例会は宝の山
酒を飲んでじだらくな生活を送つて、身に付いた性格にもなつている横着病、言い訳、他人への責任の転嫁、しんどい事から逃げる癖等。断酒会に入会したからといつてすぐに直るというものではなかつた。酒をやめる事で精いつぱいの例会出席の中では、何も考えることなどできるはずもなく、飲んで例会には出席できないので、ただ、酒だけ飲まずに会へ行く毎日の中で、ついつい出る飲酒時の癖、その都度、例会で皆さんの体験談を聞き自らを反省する毎日です。
 呉の病院を退院して渋々入会した断酒会、酒はやめたくないが会員の皆さんの優しい笑顔に引かれての例会出席、やっと落ち着いてきたころに、先輩から「前の席に座りなさい。二時間の例会中は席を立たないように。私語はやめよう」と言われ、訳も分からずに実行してきたが、何年も経つて、初めて、自分に身に付いている飲酒時の悪い癖を直す訓練だと気をつかせて頂いた。
 引つ込み思案で、ジッとして居れず、すぐ人の批判をする癖が少しずつ無くなつてきていた。それも仕事場で他の人に言われて初めてくあれ!俺はそんな風に見られているのか〉鈍いものである。その日の夜の例会でハツと気が付いた。「体で覚えろ」とはこの事だつたのか。
 それからは、例会で聞く体験談が違うように聞こえてきはじめた。同じ体験談でも、いろいろに聞こえ新鮮な感じがする(不思議だが本当)。
 体験談の中で人に挨拶をすると聞いた時、俺は人を見ると目線をそらして挨拶をしていないではないか、よし今日からとにかく自分から挨拶だけはしてみよう。と決め「お早うございます」から始めたが引つ込み思案の自分には相当の努力が必要だつた。一生懸命にやっているうちに少しずつ挨拶できるようになつたころ、また気が付いた。酒を飲まずに時が経つて居る。
 本当に断酒例会は宝の山である。今後とも宜しくお願いします。

入会の手続きをしその帰りに飲酒
私は、昭和四十七年に結婚して、子供もでき、ごく普通の家庭生活をしておりました。
ところが、昭和五十七年に家を求めたため、勤め先が遠くなり、朝は早く夜は遅く帰宅することになつたので、寒さしのぎに酒屋に寄り、立ち呑みをやるようになりました。仕事が終わつての一杯の味が忘れられず、酒量がだんだんと多くなるに従つて、夫婦げんかも多くなり、とうとう妻が「酒を取るか家庭を取るか」と言うようになりました。私は男の意地と酒のいきおいで「酒をやめることはできん」と言い切りました。それからは毎日が面白くなくなり、酒を呑んでは会社をたびたび休みました。
 ある日、妻の母が家に来ており、妻と引っ越しの準備をしていました。家の中はごつた返しで情けない一日でした。今後のことを子供たちに相談したら、長男が「お父さんは僕がみないと死ぬかもわからん」と言うので長女はお母さんのところに行くことにし、昭和六十一年七月、協議離婚となりました。以前、義母から「家は建てたが家庭がこわれた、ということのないように」と言われていたのに四年たらずで家庭崩壊、本当に申し訳ないと思います。
 それからも、どうしても酒がやめられず、昭和六十二年十二月大みそかの晩に家でぶったおれ、救急車で共立病院に担ぎ込まれました。明けて正月六日、安佐病院に強制入院し四月五日に退院しました。退院後も病院の座談会に出席していましたが、「自分一人の力でやめて見せる」と言つて断酒会へは入会しませんでした。そのうち、だんだん座談会へも欠席するようになり、また酒に手をつけました。一杯呑んで大丈夫だつたので、そのうちに毎日やるようになり、仕事ができなくなり、昭和六十三年十一月安佐病院に二度目の入院となりました。結局一人断酒は半年しか続きませんでした。そして最後は平成二年十一月二十七日、中村副会長(当時)に紹介してもらつて呉みどりケ丘病院に入院しました。
 呉みどりケ丘病院では酒の恐ろしさを毎日のように聞かされ、自分の力だけではどうにもならない病気であることが少しずつ分かるようになりました。それで退院したら酒は絶対にやめようと決心しました。が、それは、退院したらのことで、退院するまでは外泊をもらつても帰つて酒を呑むのが目的でした。二泊三日の外泊中に呑んでも、二泊三日後、病院に帰る時は絶対に酒を切つて帰るつもりでした。ところが、酒を切ろうとしても体が酒を要求し、どうしても呑まずにはおれませんでした。自分の力ではどうにもなりませんでした。
 三ヵ月後、呉みどりケ丘病院を退院した日、中村副会長宅に挨拶に行きました。副会長にこんこんと諭され「今度こそ頑張れよ、断酒会に入会して例会に出席するように」と言われ早速、翌日の庄原十周年記念大会に誘われました。入会と大会出席を固く約束して我が家に帰り、すぐバイクに乗つて西小原支部長宅に行き断酒会入会の手続きをとりました。帰り道で雨が降りだしました。雨宿りしている時、自動販売機がありました。コーヒーやジユースもありましたが目は酒の方へ行きました。雨に濡れて寒かつたのでチユーハイを一缶呑みました。二缶目をやったらもう止まりませんでした。呉みどりケ丘病院の院長先生は「断酒会に入会したら酒はやめられる」と言われた、その入会手続きを今してきたという安心感があつたと思いますが、断酒会に入会することばかり考えて大事な酒を断つことをわすれていました。家に帰つてからも居酒屋に行つて、さらに呑みました。翌日、二日酔いのまま約束どおり中村副会長宅に行き、庄原の大会に連れて行つてもらいました。とうとう酒が切れず退院は取り消され外泊扱いとして、また呉みどりケ丘病院へ逆戻りとなつてしまいました。
 呉みどりケ丘病院を退院し、平成三年十一月一日、今度こそ本当に広島断酒ふたば会に入会しました、同じブロックの渡辺さんに連れられて毎日例会を続けました。新入会員六ヵ月間で百八十回、入会一年目で三百六十六回の例会出席をさせていただきました。この例会出席が今では大きな力になっております。本当に先輩、同志あつてのまた、会社のご協力のおかげだと深く感謝しております。「毎日例会に出席することを、自分の頭で考えるより、行動し体で覚える」と言うこどが身に染みてわかりました。今後、私は最初の一杯に手を出さないよう、例会出席で頑張ります。ふたば会の同志の皆様、今後共よろしくお願い致します。

断酒1年を振り返って
いつもお世話になつ南支部2ブロックのFです。初めて会誌に書かせてもらいます。私の入院は二度の内科病院と、市民病院、瀬野川病院(入院中院外飲酒をしたため十一ヵ月と長引き、平成九年五月二十八日退院)です。酒のために仕事仲間や家族に大変迷惑をかけてきました。瀬野川病院を退院する前に、断酒会のことは知っていました。院内の掲示板に断酒会の予定表が貼られているのを見て、妻に話したところ「自分でまいた種なので自分で考えなさい」とのことで、何回か支部例会に出席させて頂きました。当病院はA・Aが主流で、ふたば会の月に一度の、院内座談会には出席をする人は少なかつたですが、妻もふたば会の先輩と共に、来てくれました。私と話すことなく座談会が終わると帰つて行く、私は妻と話したかつたこともありましたが、 「今の私にはありません」と帰つて行く。面会の時、お酒の適量と言う話の中で、妻はまだ酒を飲むのかとひどく怒りました。しかし、私は飲酒欲求がまだ心の中にありました。
 当病院を退院と同時に、例会会場に行き何が何だか分からないまま、岡崎支部長さんから入会手続きをしてもらい、広島断酒ふたば会に入会させて頂きました。先輩たちから「待つてました」と励まされ、「断酒を頑張つていこう」と、ふたば例会に出席し、多数の断酒会員の皆様の前で紹介されました。それから南支部の先輩に助けられ、妻と一緒に例会出席が始まりましたが、私の中には飲酒欲求が強く、入会後五日目でこのくらいだと分からないだろうと、カンチユウハイを飲みました。しかし、妻にはすぐ分かり、先輩といつしょに行く他支部の例会の車内で妻が、先輩に「主人が酒を飲みました」と話し、例会場前に着くと、先輩が会員さんと話をされ、今日のところは帰つた方が良かろう、と言うことになりました。先輩、妻の気持ちなど考えることもありませんでした。
 帰つてから先輩の家に来るように言われ、私は知らなかつたんですが、妻が先輩からシアナマイドも持つて来るように言われ、二人で行きました。家の中に入り、とにかくお茶を飲みなさい、たくさん飲みなさいと言われ、そこで妻がシアナマイドを出し、それを先輩たちはこれはただの水だと言われ、私はどうしようもない気持ちで聞いていました。先輩たちは、私に酒を飲んだことは責めることなく、明日はどこの例会があるのか話され、芸北がある。それと妻に仕事を一週間休んで主人を見るように言われ、妻も職場のプレッシャーも有りながら、私について休んでくれました。
 この出来事でシアナマイドは、妻が管理することになり、今現在も続いています。先輩たちにほんとうに引っぱられ、私より半年前に入会した妻、子供たちの協力があり、また、例会出席が始まりました。断酒例会を継続する中、体験を話すことで、自分の過去の過ちを真剣に、今まで考えたことなどなかつたように思います。それと私は暴力的ではありませんでしたが、例会で体験談を多く聞くたび、自分の飲酒欲求の根深さを知り、汚さも感じるようになりました。例会で中村会長が、酒を飲みたい虫がー匹残つている、と話されます。私の中にもいます。油断すると、また大きくなります。そうしないためには、例会出席だと思つています。断酒一年、ふたば会にお世話になり、各大会、断酒学校と誘つて頂き、何とか、酒の無い生活ができるようになりました。今後、一歩一歩断酒道を歩み続け、先輩から教わつた。”忍”を勉強してまいります。
 会の先輩、仲間の皆様どうぞよろしく指導下さい。

断酒との出会い
 昭和二十三年に誕生してから酒のにおいが嫌いだつた私でしたが高校卒業してから、飲み会やグループで酒を口にする機会ができたのが飲酒の始まりでした。体の小さい私がデカイ人達より酒に強いんだと、ケンカに勝つたような自信をつけていきました。就職してからも単身だつたので、誰も注意する者がなく給料のほとんどは酒代で、当時は毎日飲むことはありませんが、飲むときは大量に飲んでおり、二日酔いの出動も慣れたものでした。
 結婚してから給料を勝手に使うことができなくなり、数年は我慢して普通の飲み方をしておりましたが、自分勝手に輯職してから薄い給料となり、サラ金に手を出し始め借金が増えた為、
家の中はゴタゴタ続きで、現実から逃げ、一時でも楽になろうと酒を飲み、次第に増えていきました。
 いつごろからか、かくれて酒を飲むようになり、家の中の酒を飲んでいるのがバレると、次にかくし酒をするようになつて、これもバレて次の次は、動機があつても証拠が無ければと酒飲みの頭で酒のかくし場所を転々と変えてみましたが、これもすぐ見つかつてしまいました。しかし、酒は止まらず家族はあきらめたようです。それでも気が弱いものですから格好だけはかくし酒で飲み続け、かくし場所は空箱で、はみ出す状態に度々なつていました。目の前にー升びんもビールもあったのに。
 昨年の今ごろは酒屋の販売機が点灯する前にコンビニで酒を買つて飲み、販売機が開店すると早朝から二度目の酒を買っていました。新聞販売店の仕事なので早朝にウロチョロしても怪しまれることなく、バイクの前かごに新聞と一緒にかくし入れており、今だから書けるのですが、自動販売機のはしごもしたこともありました。
 すでに一日中アルコールが抜けることがないようになり、家族や周りからもいろいろ言われても酒を滅らすこともできなくなっていました。酒の毎日を過ごしていた昨年七月のことですが、めったに行くことのない、そごうデパートに出かけた時、そごうの正面玄関で女性の方からティッシユペーパーをもらつたのが、全く知らなかつた「断酒会」と私の出合いだつたのです。
 妻の方から「これ見て、断酒会というものがあるよ」と話しかけられ、その時、何も思わなかつた私に妻がすすめに来て、二〜三日くらい話し合つたと思います。妻自身も家族会員になつてくれるという話で、私が会に入ろうと決心したところから断酒のスタートでした。断酒会について何も知らず入会した為不安のままの出席で、不安的中?「霊界に出て酒を断つのか。前に座つている人は祈とう師なんだ」俺には無理だと思いました。思い違いで霊界は例会だつたのです。また、反発も激しく、滅酒からではダメ。酒席に行くだけでもダメ。魚釣りもダメ。・:ダメ。:・ダメ。「例会は出て、何もせず、飯だけ食つて寝てろと言うのか」と思つたものです。この時
をクリアーできたのは先輩方の励ましと家族の協力でした。
 今、ふり返るとありがたい時期だつたと感謝しております。酒を飲みたい気が起きてくることがありますが、そこを押さえることができるのは、断酒会員であり、例会に出席しているからだと、断酒できている自分を写してみて薄々わかるようになりました。これからは、この十ヵ月で築いた信頼を一瞬にして失わないように自覚して一日一日を大事に過ごしたいと考えています。
 会員の皆様ありがとうございました。

例会出席の中でこそ自分を見つめることができる
 私達夫婦は三度めの入院で「アルコール依存症」という病名と 「断酒会」の存在を知りました。二度めの入院の時は私も「問題飲酒」になんとなく気づき始めており、病院の先生に「何かカウンセリングを」とお願いした記憶があります。そのころはもうどつぶりアルコールに浸かつておりましたが、子どもの相手を全くしない訳でもなく、暴力を振るう訳でもなく、ただ飲んで不機嫌になり酔いつぶれるまで飲み続けるという生活でした。ちょうどそのころ、私の仕事も新しい分野に進んでおり、ますます責任が重くなり、また、第二子出産と会社でも家庭でも忙しい毎日で、とりあえずその日その日を過ごすのに精いっぱいでした。そんな日々の中で、私の知らないところで仕事を何日も休むことが増え、だんだん酒量も増え、何か相談しようにも「好きにしたらいい」のような言葉で私を遮断し始める状況になつていきました。ですから社会的な事も全て私が判断し決め実行しなければならないようになつていました。今だからこそ思える事ですが、仕事が忙しくほとんど毎日のように遅い私があり、「共働きだから協力して当たり前」と思つている私があり、そんな生活にも彼を依存症にむけ
させた原因もあるように思います。ただ当時は仕事に疲れて帰って酔つて腐つたような目で転がつている夫を「とりあえず父たれ」とすごい形相で睨みつけながら、社会的には精いつばい肩肘を張つて、張りつめた状況ですごしていました。そんな夫をみたくない時など「パチンコに行くからお金をくれ」と言われると、さつさと渡して出て行つてもらつてました。また、酔つぱらつている夫を「もつと飲んで早く寝てしまえ」と思い、夫が寝た後で、やっと一人の静かな時間が来るのですが、今度は私の頭の中であれこれの思いがかけめぐり、息苦しく、訳もなく涙が出て止まらなくなつた事も何度かありました。本来はこんな人ではなかつた。こんな夫婦関係をつくりたかつた訳ではなかつた・:自分が悪いのだ・:眠れない:・眠りたいと私も毎晩一人で焼酎を二よニ杯飲むようになつていました。この間も何度も離婚を考えましたが、私自身が父親不在の生活でしたので、子どものことを考えてできませんでした。二度めの入院の前はやせ細り、精神的にも不安定で自殺で
もしかねないような夫をみて、子ども達のためにこの人の命を守らなければならないという思いだけでした。先輩から共立病院を紹介して頂き「アルコール依存症」と通告された時、思わずホッとした事を思い出します。それからはワラをもすがる思いでこの十八ヵ月をすごして参りました。家族会の先輩の厳しい指導に、遅れていった会場に入れず、会場の周囲をぐるぐる回つてた事もありました。今思うとその厳しい指導というのは、ひとつひとつが私の覚悟を問われていた事のように思います。中途半端な気持ちでは生涯断酒はあり得ず、また、家族も共に回復しなければならない状況であること、多くのことを学ばせて頂きました。今、自分自身の事を考えると決して精神的に健全な状況ではないと思います。自分に全く自信がありません。少しは静かな生活かおくれておりますが、まだまだ夫の言動に振りまわされております。アルコール依存症は回復することはあっても完治することのない病気です。この事を深く心に刻み、今、断酒を頑張つている夫に
心から感謝をしつつ、また、それを切ないくらい応援してくれている娘達に感謝しつつ、私自身も例会出席の中で自分自身をとり戻す作業をさせて頂きたいと思います。断酒会の中には断酒継続を一生の課題として共に歩んでおられるすばらしいご夫婦がたくさんおられます。その方達を目標に、心豊かな「おまけの人生」を築いていきたいと思います。やつとスタートラインに立つたばかりの私達夫婦です。これからもどうぞよろしくお願い致します。


吉田病院